Politologue Sans Frontieres 「国境なき政治学者」

ペンシルベニア大学政治学部博士課程を卒業し、アメリカ空軍戦争大学で教鞭を取った後、アメリカ中西部のセントルイス大学の政治学部で教えています。国際関係学、安全保障、東アジアの政治学を担当しています。ここ数年は日本の軍事力と文明間の紛争の研究を進めています。 このブログでの意見と表現はあくまで著者個人のものであり、必ずしも関係機関の政策を反映するものではございません。

2009年07月

贅沢三昧

朝は7時にハノイの最高級ホテルで静かに目覚め、ビュッフェ・スタイルの朝食を堪能。ディエン・ビエン・フーで経験した先日の貧困旅行の疲れを取る。食後、専属のトラベル・エージェントに相談して午前中の予定のブリーフィング。9時過ぎ、シブくハイヤーを手配、30分後、ハノイ西部にある目的地の「装甲車両博物館」(armored vehicle museum)に到着。

カツカツと足音を鳴らしてハイヤーから降り立ち、入場料を払わずに館内へ。ベトナム戦争を中心とした展示物に感嘆した後は地下に潜り、ベトナムがソ連から輸入したT?54戦車に囲まれてシブくポーズ。

再びハイヤーでホテルに戻り、部屋で少し休み1時過ぎ、昼食へ。ベトナム料理の代表といえるフォーの専門店で舌鼓を打つ。3時過ぎ、ホテルのプールで一泳ぎ。もちろん全コース独占状態。プールサイドのリクライニング・チェアに腰掛け、来週クアラルンプールでインタビューする予定のマレーシア警察の方の著書を読む。あいにくの曇り空にシブシブ屋内に戻り、サウナとジャグジーで汗を流す。



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今回のエントリーはもちろん、事実の歪曲、誇張、そして多少の妄想を含む。発展途上国で生活する人間が書くブログに多いこの種の自慢・贅沢話、書き手が自分であろうと嫌気がしてならない。

第三世界でこんな生活をし、その事実を飲み込み続けるためには相当の割り切りが必要だと思う。もしもこの世界での開発・発展問題に自分が携わっていたら、こんな贅沢、自分自身が抱くであろう道徳的な葛藤でまず長続きはしないだろう。ホテルの一歩外を出れば事実上のスラム街であるこの町で、平等社会のユートピアを夢見続ける社会主義のこの国の中で、どうして己だけ贅沢をしながら他者の開発に従事できよう。他国を、そして他者を開発する行為が生み出す大きな道徳的問題をどうして黙認できよう。

第三世界における開発・発展問題の当事者と話す限り彼らは割り切っているのが大半のようだが、それでも道徳問題は解決されないし、実は逆に悪化させているとも思える。

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そんな事より、これに注目↓

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ディエン・ビエン・フーへの旅行(長編)

先ほど、ベトナムはディエン・ビエン・フーへの2泊の旅行から帰ってきた。何十枚もの写真を載せずに日記を書くのは少し躊躇うが、今は記憶が残っているうちに記録しておきたい。アルバムはアメリカに戻ってから掲載します。

私の人生の中でも最も印象的な旅行のひとつになった。とても感動した。

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日曜日午前4時、起床。泊まっていたホテルを5時にチェックアウトして、長距離バスの発着場所まで闇夜のハノイをタクシーで飛ばす。約15分で到着、このバス停ではもはや英語もフランス語も通じない。切符売り場でさえもね。私に声をかけてきたおっさんにディエン・ビエン・フーと述べるとそのバスまで連れて行ってくれた。バスの運転手に行き先を告げると旅費を請求される。235,000ドン、日本円で約1200円である。明け方の6時、出発。以下、主要停車場所の時間を記録しておいた。

06時00分:ハノイ(Ha Noi)発
07時45分:ホア・ビン(Hoa Binh)停車
11時45分:昼食停車(30分間)
12時50分:ソン・ラ(Son La)停車
15時00分:Tuan Giao 停車
17時10分:ディエン・ビエン・フー(Dien Bien Phu)着

往路を飛行機ではなくバスにした理由は、その途中にあるベトナム高地では絶景が続くと読んだからである。そしてそれを信じて11時間のバスに乗ったのは正解だった。このバスでは出発地点からすでに満席で、体をまともに動かすスペースもない。隣に座った男性は行商人の様子で、パンの詰まった大きなビニール袋を2つ、椅子の下に置いた。彼が持っていたスープのパックからは極度の異臭が感じられ、出発から数時間の間苦しんだ。ただそれも全て経験。このバスは禁煙だったが、運転中はほぼ永続的にDVDのカラオケを大音量でかけ流し(従って乗客は眠れない)、バイク一台追い越すたびにクラクションを鳴らしまくる。そんな状態が11時間、延々に続いたのである。

昼食は30分ほど、小さな村にあるバス停に止まり乗客の多くは飯屋で麺類を食べていたが、私には合わないだろうと早々と諦め、前日に緊急のために買っておいたゼリー2つを口にした。もちろん空腹が覚めることはない。

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ソン・ラの村を越えた午後3時過ぎからは、やはりインドシナ半島高地の絶景を目にすることができた。後ほど写真を載せるが、やはりこのバスで正解だった。異様な形の小さな山を通り越え、大きな山にはくねくねと、未舗装の道をガタガタ音を立てながら走る。ソン・ラ辺りからは人々の顔立ちと服装が変わり、すなわちモン族(左)の地域に入ったことが確認された。

この旅で一番恐ろしく感じたのは、このバスは高地の曲がりくねった山道のガードレールのないカーブでさえも、時速40キロほどの猛スピードで走り続けていた事である。カーブの下を見ると文字通りの絶壁である(絶景でもある)。そんなカーブを何度も曲がっているうちにこちらも少しずつ感化され、恐怖感が次第に諦めと変わっていった。結局は祈ることしかできないのである。そしてインドシナ戦争中は、こんな山道を使ってベトナム軍が大砲を輸送していたのである。

そんなことを思いながら午後5時過ぎ、目的地に到着。バスを降りた瞬間から、タクシーのおっさんら5・6名が私を囲む。それに英語で対応してツーリスト用の案内所を見つけ、そこに入る。が、案内所の女性も英語もフランス語も話さない。そう、この人口15万人ほどの町には外国語を話す人間は数えるほどである。案内人に持ってきたホテルの住所を見つけると、かろうじて方向だけは教えてくれた。ちなみにこの町の地図はネットでは見つけられなかったため、ホテルの住所のみを予め記載しておいた。

30分ほど、町行く人々にホテルへの行き方を聞いて歩いた後、ついに到着。その名は Dien Bien Phu - Ha Noi - Hotel。予約していたためチェックインはスムーズに済んだが、部屋に入るとそこは全てが基礎的なものである。それもそのはず、この町では最高級のホテルだが、2つ星なのである。値段は一泊19ドル、日本円で約1800円である。驚いたことに、前の人が使ったシャンプーと石鹸が私に与えられた。部屋を歩くと蟻も共同に生活していることに気がついた。部屋のドアにもロックがかからない。金庫もないため、パスポートは外出時に携行することになった。

このホテルで唯一英語を話すボーイにお勧めのレストランを聞き出し、町を散歩。ネットカフェを見つけ、30分ほどネットでメールをチェックして会計すると60円。その後、レストランを見つけるもあまりのひもじいインテリアに度肝を抜かれ、今夜は残りのゼリーのみの夕食を決心。腹を壊すよりも減らす方がましだという戦略的思考である。w 夜、10時前、あまりに疲れて就寝。

しかし午前1時、私の部屋が突然停電を起こす。小さな光が消え、冷房が切れた。部屋のドアが閉まらないため、停電に気づいた外部の人間の突入を警戒し始める。10分後、電気は戻り、再び就寝。

午前5時、起床。論文を少し書いて7時過ぎ、ホテルの食堂で朝食。メニューは目玉焼きひとつにコッペパン2つ。私にとっては贅沢な栄養源であった。ただし残念なことに、この時の卵か、この時飲んだコーヒー(水)でお腹をやられた。泣く

8時過ぎ、ホテル近くのディエン・ビエン・フーの軍事博物館へ。入場料は5千ドンで日本円にして30円。博物館の中は町の歴史からインドシナ紛争、そしてベトナム戦争に関する資料が満載。建物の外には破壊された仏軍の戦車や、べトミン軍が使った大砲が多くそのまま展示されている。大興奮で博物館を後にした。その後は道を挟んだ場所に位置する戦死者のための墓場を訪問。下の写真は街中にあった共産党プロパガンダ。

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その帰り道、ついにディエン・ビエン・フーの戦場へ。仏軍が一時占領したコードネーム Eliane (エリアン)の第二陣地(Eliane 2)の跡を訪問。小山を上ると目に入るのが無数の塹壕と掩蔽壕(えんぺいごう)の跡地。戦争後も大切に保存してある。大興奮の私はもちろんその塹壕に体を潜らせて地形、方向などをチェック。幾つか面白い写真も撮った。エリアンを数分かけて巡り、ホテルに戻り、少し体を休ませた。壊れた腹と格闘しながら下痢止めを飲んで昼食を諦め、今日は全て戦場めぐりに捧げる事を決意する。

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次、激戦地のひとつだった仏軍コードネームの Beatrice (ベアトリス)の戦場へ。後でわかった事だがこのコンバット・エリアは地元の人でも知らない地形にあり、実際に連れて行ってくれたタクシーの運転手も知らなかったから、私の地図を元に二人で探した。結局タクシーを降りた場所から歩くと、そこは普通の民家。その家の女性に「Doi Him Lam」(ベトナム語で「ベアトリスの丘」を意味する)と告げると、その民家の裏山を指差す。彼女の承諾を得て、その民家を横切り(マジ)、山道を探すも見つからない。そう、ベアトリスの頂上へは文字通りのジャングルを切り歩く必要があり、私はそこで簡単な決意をしなくてはならなかった。

ジャングルを通ることを決意し、山を登り始める。幸い、その民家が飼っている大きな犬2匹が私のことを追っかけ始めたため、何をされるか分からない私の足も速くなり、半袖短パンの姿で森の中へ。途中、何度も滑り落ち、切り傷を負い、虫にも刺されるも、何とか山を登ると途中には戦争で使われた塹壕を発見。そこからはほかの塹壕との合流地点を計算しながら歩き続け、汗を拭き、写真を撮りながら、ついにベアトリスの頂上に到着。あまりの苦労と感動、そして誰にもわからないこの絶景を私一人でものにしている事実で、少し涙が出そうになった。

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ベアトリスから降りる道も大変だった。文字通りのジャングルのため、そしてコンパスも携行しておらず苦労した。再び何度か滑り落ち、数十分後、先ほどの民家に到着。「犬はカンベンしてくれー」と英語で悲痛を叫びながら民家の方に犬数匹を静止して頂き、無事下山。写真はたくさん撮った。貴重だと思う。数日後にここに掲載します。

ベアトリスからの帰り道の4キロを徒歩で歩き、途中で西洋系の雑貨屋を見つけたので、そこで再びゼリーを購入。そして今度は仏軍コードネームの Dominique (ドミニク)の古戦場へ。ここはディエン・ビエン・フーの記念塔が建てられ一般観光地化されている。標高300?ほどの階段を汗を流しながら上り歩き、記念塔の周りを歩いて、その周りに位置する塹壕をチェック。あまりの暑さと疲れに少し気を失いそうになる。

ドミニクを降り、ようやくホテルへ。疲れ切った体を数分間休ませ、今度はホテル近くに位置する別の古戦場、Eliane 1Eliane 4 へ。ここでも同じように山道を登り、戦場跡を確認する。再びホテルに戻り、今回の戦場めぐりを完結させる。ここディエン・ビエン・フーにはほかにも大切な古戦場があるが(Gabrielle や Isabelle やClaudine など)、私の今回の目的は十分達成できた。とても感動的な戦場めぐりだった。そんな思いを胸に、部屋で少し論文を執筆し、午後10時前、就寝。

火曜日6時前に起床。部屋でホーチミンの書物を読書し、午前9時、朝食。お腹は治りかけだったが、この時食べた目玉焼き2個か紅茶の水で再びお腹をやられた。最高級ホテルでこれである。この町ではもうメシは食わんと決意してホテルをチェックアウト。空港へタクシーで向かう。ちなみにこの町のタクシーの初乗りは1万ドン、日本円で約60円!

空港でのチェックインはスムーズに行ったが、地元テレビ局のカメラマンにやたら執拗に追われてフィルムに収められた。私のイケメンさはやはり万国共通だったんだと自覚しながらw搭乗手続きを済ませ、空港の2階へ。12時10分の出発の30分ほど前に飛行機が入場。天気が曇り空だったのとエンジンがプロペラだったため、大揺れを覚悟。30分ほどの飛行は予想を覆す勢いで静かだった。

今夜泊まっているハノイには午後1時、到着。ディエン・ビエン・フーへのミッションはこれで完結!

今日はこんな長いエントリーを読んでくださってありがとうございます。こんな巣晴らしい経験を共有できて嬉しく思います。皆様お休みなさいませ。

ベトナム3日目

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ベトナム入りして3日目に当たる今日、古戦場行きのプランは一日延期。今日は朝早くからホーチミンの霊廟とその周りの施設を訪れる。午後はインドシナ戦争を意味する「革命」のために建てられた博物館を見学予定。時間があったらヒルトンのプールで休憩する。

昨日は時差ぼけで疲れ切った体を引きずってハノイ国立大学へ。バイタクに乗っている行きの30分の間、走行中に別のバイタクと接触してバイタクから道路のど真ん中に投げ出されてしまい少し体に切り傷を負った。シブイ! ヘルメットを被っていたため幸い頭の方は…。同じように切り傷を負ったまだ10代の運転手の男の子と共にニヤッと笑い、「大丈夫か? いい経験したなー」と二人で握手した。

「到着後」、大学だと思って入った建物は実は知的財産に関する、全く関係のない国立事務所であり(私はベトナム語は全く読めずこの街には英語の表記も実に少ない)、事務の方に「あのー大学の歴史と政治学部を探しているんですけど」と英語で必死に説明すると何を勘違いされたのか食堂に連れて行かれ、英語を話す方に紹介されて昼食をご馳走して頂き、あーやっぱり場所間違ってたねと優しくご指摘頂いた。w 優しい人たちだねみんな。そこで食べたエビはメチャクチャ旨かった。

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ここ数日の間読んでいるのは、Eric Herring と Glen Rangwala による Iraq in Fragments。同じタイトルの映画があるようだがまだ観ていない。こちらの本は、イラク戦争直後からの2年間の政治問題を民族、経済、歴史、そしてハードコアの政治という多角的な視点から書かれたもので、出版後3年経った今でも多くを学ぶ。この出張に持ってきて正解だった。

ベトナム到着

予定通りハノイ到着。火曜日の夜にニューヨークを出発してハノイに着いたのは木曜日の朝。日付変更線をまたいでの飛行機での移動のため、私の水曜日はかき消されてしまった。あの映画プラトーンの図書版の中でも、主人公のクリス・テイラーの誕生日が、戦争でベトナムに向かうための移動の間で同じようかき消されていたのを思い出す。そんな始まりだった。

道を歩けばキャベツやら鶏肉などのゴミが普通に捨ててあるハノイ。ベトナムの水準では高級に当たる私のホテルでも、足を一歩踏み出せば、鶏が所狭しと走り回り、一般の排水溝(ドブ)がむき出しで流れているのである。首都のど真ん中でも想像しがたい空間がある。

そんなベトナムでも、軍事史の視点から見れば世界でも突出した誇り高き国民国家である。何十年と渡った植民地時代の苦労の後、世界政治の最先端を走っていたフランスを駆逐しアメリカを連続して撃破した。

そのフランスを倒した主な戦場のディエン・ビエン・フーに行くのは明日早朝。一体何を学べるか、楽しみだ。

イラク戦争を研究して思うこと

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週末を通して徹底的にイラク戦争についての書物を読む機会があった。自分の今までの理解の幅よりも広く議論が進んでいる事に気づく。5冊ほど同時に目を通しながら現状の理解のために、自分の知らない部分のパズルを埋める作業が続く。

執筆も同時に進めているため、博士論文の最終章は既に20?ほど埋まっている。同時に、私が博士論文の中で用いている理論とは距離があるため、その距離を利用しつつ、今後の政治学にどう貢献できるか考えている。

当時の小泉政権がその必要性を疑うことなく一方的に支持したこのイラク戦争、ブッシュ政権の間違った政策がなければ私が研究のネタとして学ぶことはなかったろう。数えられるだけでも数万人の犠牲者が出る事もなかった。何億にも上る我々の血税も(恐らく)より賢く使われていた。中東がこれほどまでに不安定視されることもなく、南アジアでの戦争も今よりも縮小化されていただろう。

2003年3月の開戦の直前、アメリカの政治学者のほとんど(国際関係学専門家も含む)がイラク戦争に反対し、署名活動を行い、ブッシュ政権に戦争の回避を促した。一方で日本の反対運動でまともにみれたのは、外交官を含む実質的な力のない数人の役人と、少数の「知識人」「文化人」などと呼ばれる政治学者でもない方々だけであった。

アメリカでは戦争を支持した保守層の政治家の多くが選挙にて罰せられ、ブッシュに負けたケリー元大統領候補もその支持力を失った。ラムズフェルド、ウォルフォウィッツ、テネット、そしてパウエルでさえも一定の失政を自らの撤退により、もしくは自ずとして認めている。一方で日本では戦争を支持した自民党は与党としての地位を維持し続け、イラク戦争の必要性、そして日本の海外貢献を疑うことなく、その外交政策が対米追随の概念を中心として練られている。多くのことが疑問として残っている。日本が参戦から得られるはずだった利益は一体何なのだろうか。日本のように戦争に直接参加しない「参戦」に対する世界からの評価はどのような性質なのだろうか。そしてそれらを検証せずにどうして、日本の政策が正しかったと一方的に仮定することができるのだろうか。

私の専門上、このような疑問を深く研究して発表する機会は恐らくないだろうが、イラク戦争を学ぶ課程にあって、そんな考えが止まらない。

これ聴いてみ↓
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Sash! Megamix
http://www.youtube.com/watch?v=jmpBFBDtW3c&NR=1&feature=fvwp

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イメージ:
http://www.btlonline.org/2007/i/troopsurge081707.jpg
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