Politologue Sans Frontieres 「国境なき政治学者」

ペンシルベニア大学政治学部博士課程を卒業し、アメリカ空軍戦争大学で教鞭を取った後、アメリカ中西部のセントルイス大学の政治学部で教えています。国際関係学、安全保障、東アジアの政治学を担当しています。ここ数年は日本の軍事力と文明間の紛争の研究を進めています。 このブログでの意見と表現はあくまで著者個人のものであり、必ずしも関係機関の政策を反映するものではございません。

2009年10月

なんて難しい世界か

博士課程も大詰めとなってきたこの頃、アメリカの政治学がいかに厳しい世界である事が、部分的にだが少しずつ見えてきた。博士課程の世界に入るためには、10倍、20倍、そして30倍もある入試を突破するだけでも大変な事なのに、入学後の世界はもっと厳しい。

入学後は、学部内でのサバイバルに勝ち抜く事、ファンディングと教授との関係を確保し続ける事、博士論文を上手く進め終わらせること、そして厳しい就職競争に勝ち抜く事などの全てのチャレンジが待っている。そられ全てを考慮すると、入試の段階以前描いていた理想の「教授像」に近い形で卒業できる政治学者は事実上、応募者総数の何千人に一人の割合なのではないか。

アメリカ、イギリスのトップ校のプログラムに在籍する生徒を見る限り、もちろん彼らの総数が多い分、卒業数も(卒業する割合も)比較的多いのだが、そんな中でさえも最高の理想の形で卒業できる人は本当に少ない。ほとんどの生徒は職探しの段階で予想以上に強い競争を強いられ、その多くが予定していたゴールを再設定させられ、ある程度の妥協をしながら将来を模索するのである。

このブログの主旨の一つはもちろん、努力とそれが生み出す結果には一定の比例関係が成り立つと主張し証明する事である。そして過去にも何度かここに書いたように、実際の世界ではその法則には様々な限界があり、多くの場合妥協させられ、多くの場合夢を諦めさせられる。理想が現実に打ち負けるとき、人は悲しみ、苦しみ、休み、そしてその壁を越えようともがく。私は今、少しだがそんな世界にいる。

それでもそのうち光は見えてこよう。それまではじっと我慢して、歯を食いしばって苦労を乗り越えようと思う。

大学最弱のアメフトチーム

あまりの忙しさに休む時間もないここ数日。毎日学部の中を走り回っております。

そんな時でもスポーツには時間を割く。月曜日は今学期3度目の学部対抗のアメフトの試合。過去2試合ともに大敗を喫していたため今度はと、みんなで盛り上がる。特に根拠もなく今回は勝てると思い込み、実際に試合中には使えもしない戦略を練り、酒も入っていないのにゲーム前にはとことん盛り上がる我がチーム。試合前も試合後も円陣が自然に出来て、いい歳した20台後半・30台前半の大学院生の男女が次はやったるぞと大声で叫ぶのである。

もちろん試合は負け。相手は有名なウォートン・スクールのチームで13対0。しかもこの13点はゲームの最後の2分の間に連続して入れられた。ゲームの中ではうちはディフェンスが上手いのだがどうやらオフェンスが弱いようで、今回も結局レシーバーの私がパスを一本受けて20ヤードくらい走っただけで、ここ3試合全て無得点が続いている。

うちはおそらく大学の中でも一番弱い学部なのだろうが、それでも毎週最高に楽しみながらやってる。要は結果じゃなくて楽しむ事だとしっかり熟知しているのである。

火曜日は夕方5時半からみんなで夕食を食べながら、後輩のロゼラがプレゼン。博士論文のドラフトをある程度書き上げたので、それを予め国際関係学専攻の院生10名ほどに回し、発表会にて質疑応答をするもの。1時間だけだが多くの質問を出しながらロゼラに色々な研究の方向、方法論、問題定義の仕方、論文の構成の仕方などたくさん議論した。参加者は私の他にライアン、カイヤ、バーバラ、アリソン、エメリク(1年生)、ダレイ、そしてジョセフ(1年生)。こちらも学部内の unit cohesion の強さを実感した。

国境はこう渡る3:ノルマンディーからサウザンプトンへ

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ノルマンディーの古戦場を歩き回った一日。それまで読んだ事しかなかった第二次世界大戦のフランス北部での経験を、実際に現地を訪れる事によって映像化できた事に感動していた。その地域の都市 Caen に帰ってからも興奮は収まらず、町全体を見下ろすケン城を見て、その美しさに感動して歩きながら、今回の旅が今後の自分の人生にどう影響するのか考えていた。

ケンの北に位置するウィストレアムに発着している、イギリス南部の都市、サウザンプトン行きの夜行フェリーに乗ったのはその日の深夜。バックパックの旅行中ということもあり、今回も一番安い席だったので、部屋もベッドを与えられず、文字通り船内で雑魚寝する事になった。大きな船の中の一般エリア、つまり他の人が歩いている場所に自分の「陣地」を確保し、そこで体を休めてどうにか夜を越すのである。

もちろんそんな場所でうまく寝れる訳がない。もはや「良い」席は他の人に占領されている。早々と諦め、荷物を持ってデッキに出た。夜の夏風を感じる。北上する船の右側に渡ると、ルアーブル港の夜景が見えた。

綺麗だった。

タイトルなし

木曜は正午からコーネル大のピーター・カッツェンスタイン教授が我が学部で世界の文化についての講義。最新本のイントロの部分を1時間ほど話した。日本の安保についても何冊か書いている彼らしく、特に理由もなく日本を世界文明の一つと位置付けていた(ハンティントンに同意する形で)事に違和感があったため質疑応答の時間に、その根拠を質問させて頂いた。その日の夕方に学部の国際関係学科にて、博士候補数名でピーターを囲んで1時間ほど座談会。アメリカの大学院事情の話を広く話した。

金曜は昼間に久しぶりにいつもの連中とバスケ。夕方から今年初めての東アジア学の院生グループの会議に参加。友人の二ールとネイサンが各々の研究論文の発表し、質疑応答を通して議論。内容的にも満足のいく時間だった。

ただ、ここに来て体調管理の難しさを味わった。ここ数ヶ月の大変なスケジュールのお陰で疲れが溜まっていたのかついにダウン。思えば博士論文を書き始めて3年以上経ち、未だに完全に休みを取ったのは2年以上前の1日のみ。ここ数ヶ月は休日も全て返上で、週末も関係なく毎日執筆を続けていた。今回は疲れている時に時々かかる消化不良と酷い頭痛に苦しみ、少し休憩が必要だった。幸いにも数時間で回復したが健康の必要さを身を持って実感した。

国境はこう渡る2:ブダペストからベオグラードへ

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話は遡ってハンガリーの首都ブダペスト。その日はまともに観光も出来ぬまま正午発のセルビアの首都ベオグラード行きに乗り込む。時は2001年。コソボ戦争の一連でセルビアがNATOの爆撃を受けてまだ2年。ミロセビッチが大統領の職を追われてまだ1年。このヨーロッパの火薬庫は西洋諸国をまだ敵視していた。

ベオグラードの到着は午後7時ごろの予定。

列車は定刻どおりに出発。が、すぐに遅れ始めた。私にとっては不思議に思えるほどの鈍行で進み、一つ一つの駅にも数分かけて停車しては、鈍行を繰り返す。私のコンパートメントには他に、ドイツ人とアメリカ人のバックパッカーが座っていた。私は時を忘れて、数時間前に買ったマドレーヌをつまみながら、旅行中も持って来ていたミサイル防衛の論文を書いていた。ふと外を眺めると、美しい農村地帯が延々続く。イギリスで見るような牧歌的な光景が、あたかも戦争とは無縁の状態で私を迎えていた。

数時間かけてようやくハンガリーとセルビアの国境に到着。列車は止まり、スラブ諸国に多いあの類の軍服を着た完全武装の警官数名が旅券のチェックに回ってきた。私は必要とあれば同じスラブ言語であるセルビア語に対応できるよう、頭の中身をロシア語にスイッチさせた。入国審査に関しては予めビザが不必要だと理解していた私でも少し緊張する。数分かけて、パスポートは無事戻ってきた。ただ、私と一緒に座っていたドイツ人とアメリカ人の旅行客はそんなにラッキーではなかった。ビザがない事を理由に部屋から強制的に連れ出される。「No visa, you're out!」と叫ぶ警官。

敵国民への入国拒否、当然の成り行きである。可哀想な旅行客は電車から追い出され、ブダペストに戻る電車を数時間待つ事になった。

数十分後、電車は何事もなかったかのように滑り出す。セルビア北部の大都市ノヴィ・サドには夕方到着。列車が駅を出て南下すると早速大きな川にぶつかる。そこで突然列車は大きく迂回する。驚いた私をよそに、列車は新しく出来たばかりの橋を渡り始める。そう、古い橋はNATOの爆撃で木っ端微塵に破壊され、新しい橋を渡るためにわざわざ大きく迂回しなければならなかったのである。

首都には深夜到着。半分パニクりながらその晩の部屋を探すと、たまたま駅前のホテル・ベオグラードが空いていた。そこに宿を取り、体を休めた。

翌日、朝食のためにホテルの食堂へ行き、自慢のロシア語を使って朝食をシブくオーダー。周りの人は美味しそうな牛肉と卵料理を食べている。胸を躍らせて楽しみにしていると、私のロシア語がメチャクチャだったのか、オーダーしていたのはパン一個のみであった。

たったの一日しか過ごせなかったベオグラード。私が訪れた20以上の国の中でも、最も綺麗な町の一つとして心に残っている。また行きたいねー。

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イメージ:http://en.wikipedia.org/wiki/Kalemegdan
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