Politologue Sans Frontieres 「国境なき政治学者」

ペンシルベニア大学政治学部博士号取得→アメリカ空軍戦争大学勤務→現在はセントルイス大学の政治学部准教授及び国際関係学科主任。専門はサイバー、国際安全保障。航空自衛隊幹部学校客員研究員(2016-18)

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2013年10月

博士論文が出版されることになりました

博士論文を書き始めて7年。就職して3年。長い道のりだった。

先日、アメリカのある大学出版会と正式な契約を交わし、来春に博士論文が出版されることになった。

卒業してからもこつこつと執筆を続け、本気になり出版「活動」を始めたのは去年の夏。その後紆余曲折を得て無事今回の契約に到った。

数か月に渡る編集部との交渉や話し合いを通し、アメリカの大学出版の事情を少し理解することができた。多少は痛い思いもし、いくつか経験も積んだ。このブログのテーマの一つになっている努力の重要性、政治学会での人間関係、ネットワークの重要性、プロポーザルの書き方、出版社とのやり取りなど、ここに書かないことも多いが、今後少しずつ、今回得た経験を記す機会があると思う。

担当の編集者はこのプロジェクトをとても気に入っており助けてくれる。指導教官だったエイブリーやエドと先月シカゴでの学会で会い、その経過を報告すると喜んでいた。日本でお世話になっている方々数名にもすでに簡単に報告してある。

多くの人に助けられここまで来ることができた。出版されたらできるだけ多くの人に感謝したい。一番感謝しているのはもちろん家族で、家族の理解とサポートがなければここまで来れなかった。今月はドイツに家族旅行に行くのだが、旅行の最中、どこかいいところで美味しいお酒を飲んで乾杯したいものである。

職場復帰

報道されている通り、国防総省で働く民間人にリコールの知らせが入り、今週から職場復帰することになった。私のほうにも学部長から電話を通して連絡が入り、月曜日から普通の仕事に戻ることになった。ただほかの省庁で働く民間人は依然として強制休暇を受けたままで、その数は40万人以上に上る。政府の機能低下の状態はまだ続くのである。

陳平とザップの死

この1か月の間で、アジアの独立運動を率い、現在の対反乱軍戦争のモデルとなった2人の指導者が亡くなった。陳平とザップ将軍である。

陳平は当時のマラヤを共産党政権下に置くため、英軍とゲリラ戦争を10年以上も渡り戦い、最終的に戦争に負け、タイに亡命しそこで命を落とした。非対称戦争の分野では彼の役割は基本的に否定的な視点からみられているものが多く、結果としてイギリスの大勝であったとの理解が広がっている。特に西洋の文献ではその傾向が強い。私は博士論文研究の段階でマレーシアに飛び現地調査をし、2011年に出版した論文の中で、その主流の見識とは一線を画し、ひとえにイギリスの勝利としては言えない、陳平の役割はより複雑であったということを指摘し、発表した。

対照的に、「赤いナポレオン」ことザップはこの分野における、第三世界のヒーローである。当時のベトナムから見れば大国であったフランスそしてアメリカを自国の陣地で長期戦に持ち込み、大量の死傷者を出しながらも勝利を収めることを可能にした、ベトナムが誇る軍事指導者である。私がハノイ、そしてディエンビエンフーで現地調査をした際も、どの軍事博物館に行こうが、どの戦場を回ろうが、彼の大切な役割は強く伝わってきた。ハノイにはホーチミンを記念する建物が多いが、今回のザップの死をもち、ザップを記念する建物も多く立てられるのではないかと思う。

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私がディエンビエンフーに行った際のブログのエントリーを久しぶりに読むと、当時の思い出が蘇ってきた。今から思い出しても素晴らしい経験だった。体を壊すなどハードな面もあったが、研究の一環として訪れる場所としてはある意味理想的で、自分のキャリアの点でも多くの自信になった。写真はほぼ未踏に近いジャングルを通り抜けベアトリスの頂上にたどり着き、記念碑の前での一枚。体にいくつものかすり傷を負い、大汗をかきながらポーズを決めていると、空から雨が降ってきた瞬間であった。

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おまけでディエンビエンフーの写真をもう一枚。共産党のプロパガンダ。

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北東アジアの授業

1月から教える北東アジアの授業のシラバスが出来上がってきた。今回は出張先の韓国、日本、台湾の国内・国外情勢の授業に加え、北東アジアで注目すべき大切なテーマも幾つか絞り、地域内の経済問題、サイバー問題、領土問題、そして核開発問題などにも焦点を置くことにした。また、授業には韓国、日本、台湾それぞれから来ている留学生を授業に呼びゲストレクチャーもして頂くことを予定している。

政府機関が停止しても…

アメリカ政府機関の一部はシャットダウンしていても、このブログは24時間ノンストップののりっぺです(言ってて恥ずかしい…)。皆様こんにちは。

私も空軍所属のシビリアンとして10月1日より強制休暇(英語で言う furlough)を命じられ、悲しい意味で歴史的なこの日を迎えることになった。昨晩の段階では下院と上院の間でオバマケアへの譲歩が見られなくとも、1日以降の政府内に一時的な予算を回すアレンジメントはいくつか存在するため(stopgap など)、正直言うと楽観視していた。だがワシントン現地時間の午後11時を過ぎた時点でシャットダウン不可避との報道がテレビであったので、半ば諦めながら朝を迎えることになった。

今朝はいつも通りの時間に職場に顔を出し、治りかけの体に鞭を打ちながら、職場で休暇に入る準備をした。9時からはシビリアン職員全員に校長直々の伝達事項があり、会議室に集まって今後の予定の説明を受けた。一部では今朝から職員は来ないと報道されているが、実際はそうではなく、今回発行された強制休暇の命令書にサインをするため、そして他の仕事もするため、職場には一度戻るのである。

また、一部では essential personnel のみが強制休暇の対象外だと報道されているが、その表現では、強制休暇の対象者は non-essential、つまり不必要の要因なのか、と誤解されてしまう。今回の強制休暇対象者は今日の時点で40万から80万人もいるのである。なので現実は、ここ数日政府内で回っている事務文書を見ると、 exceptional personnel (例外的な職員)と表現されているのである。誤解を招く表現をできるだけ避けるよう色々気を付けているようである。

それで思い出したが、日本語で「有識者」(グループ、懇談会、など)という表現がある。私は今一つ好きになれない。そのグループに属さない人間には識がないのか? そんなことがあるはずがない。変えるべきである。

小論文が掲載さる

小論文が米国大学院学生会の最新ニュースレターに掲載されました。今回は学部卒業直後に行った国連本部でのインターンシップと、3年前私がどのようにして今の仕事に就いたのかについて書きました。興味のある方はどうぞ。

以下添付します。

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前々号で私はアメリカ留学においてのインターンシップの基本的な役割を、そして前号ではランド研究所での研究を通して、大学院での 勉強と仕事のバランスなどについて書きました。最終回の今回は、過去の経験を元に、インターンシップを通してどう世界を見るか、そしてどうやって私が今の就職先を決めたかについて書きたいと思います。  

まずは国連にて。大学卒業後、私は教授の紹介を受け国連本部でインターンをする機会がありました。国連内で行われる会議に出席しノートを取り、それをまとめて国連大学の上司に提出することが私の主な仕事でした。当時まだ23歳、世界政治について何もわからず、アメ リカで見る多くのものが自分にとって新しいものでした。働いていた数 ヶ月の間で幾つもの会議に出席し、友人も作り、国連職員の方々との食事会にも参加し、国連の理解に努めました。国連のパスを使い、誰もいない国連総会や安全保障理事会の会議場に入り込み、椅子に座り、ここで幾つもの大切な案件を議論していたのかと思いながら感動 していたものでした。  

当時の私にとって一番有益だったのは、そのインターンシップを通 して国連の理解を深める機会があったことです。そこで私が学んだのは、世界中の発展・開発問題を担う超国家組織としての国連の限界でした。議題の内容よりも形式で始まり終わる会議、目的を完遂せず中 途半端で「終わる」会議など、日本の教育では教わらなかった、教科書にも書かれていない、一般的にも語られていない、多くの側面を目撃する機会がありました。  

国連は外交の場。限界はあろうが様々な国、文化、政治団体の代表が集まり問題解決に協力しあって努力することに意義はあります。また、国際平和や発展における国連の多大なる貢献を否定するつもりもありません。ただ元々少し懐疑的であった私にとっては、同期のインターンの間でも見られた国連主義の強い日本外交と世界の現実のギャップを通し、自分の世界観を良い意味で再構築する素晴らしい機会になりました。  

短期のインターンシップが人間の見識を進化させることもあれば、就職活動において過去の経験が意味を持つこともあります。もちろん、アメリカの学問の世界で勝負をし就職を目指すのであれば、社会経験よりも研究の出版や出身校や指導教官の推薦状が評価される傾向が強いと思います。しかし、多くの大学では採用の段階で各々の候補者の過去の経験を考慮する場合があります。特に教員としての能力を採用過程で重んじる大学はこれに当てはまるはずです。  

そこで、私がどうやって空軍戦争大学で教鞭を取ることになったかを書きたいと思います。私が就職活動をしたのは2010年の秋、あのリーマンショックが教員就職前線にも大きな影響を与え、結果として最悪の就職状況の年でした。就職難を承知で世界各国の70校以上の大学やポスドクに応募し、最終的に4、5校ほどのプログラムから声がかかりました。  

そんな環境の中、アメリカ政府の就職サイトで応募すると数週間後、国防総省内のある大学から電話がかかり、数日後、今度は面接に呼ばれました。それと並行するように、今の大学からも呼ばれ、両方の大学で面接を受けました。面接日は双方とも朝の3時に起きて自分の研究の発表の練習を何度もし、結果としてとても良い反応を得ることができました。その後、両大学間で簡単な話し合いを経て、今の大学からオファーを受けました。大きな役所でもある米空軍の2ヶ月ほどの審査の後、マックスウェル空軍基地に降り立ち、米国国旗の前で忠誠の誓いをしました。これについては私のブログでも書いているので、興味がある方はご覧下さい。  

この就職に関しては特にインターンシップを含む過去の社会経験が決め手だったというわけではありませんでしたが、面接の段階で出てくる教員、研究者としての自信を構築するという意味では重要だったと思います。これまで大学の人事に関わる機会がありましたが、経験は様々な形でカウントされます。特に、長期的に見ても研究所等で得られるインターンシップの機会は貴重なもので、多くの人が持っている経験ではありません。博士号取得の後、アメリカでの教職を考えている方にとっては、幾つかの研究機関での経験があるほうが候補としての魅力が増すと思います。  

この3連載を通し、政治学とインターンシップの密接な関係について書く機会を頂きました。アメリカに留学される方にとって研究所での経験は必ずしも最終目的ではないと思いますが、社会経験としても、学問的知識を深めるためにも、そして希望する仕事に就くためにも、イ ンターンシップは大きな役割を果たしてくれます。興味のある方は是非挑戦してみて下さい。応援しています。

※この論文は私個人の考えに基づくものであり、アメリカ政府、国防総省、そして米空軍戦争大学の政策を必ずしも反映するものではございません。
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