Politologue Sans Frontieres 「国境なき政治学者」

ペンシルベニア大学政治学部博士課程を卒業し、アメリカ空軍戦争大学で教鞭を取った後、アメリカ中西部のセントルイス大学の政治学部で教えています。国際関係学、安全保障、東アジアの政治学を担当しています。ここ数年は日本の軍事力と文明間の紛争の研究を進めています。 このブログでの意見と表現はあくまで著者個人のものであり、必ずしも関係機関の政策を反映するものではございません。

2016年06月

空自機への「攻撃行動」とこれから日本に必要なこと

JBプレスでの織田空将の記事は良かった。

中国軍戦闘機による空自機への「攻撃行動」は政府の見解と多少異なるようだが、この種の見方が外に出てきてしまっているということは、恐らく実際の状況は本当に悪化しているのだろう。日本の主権が中国によって踏みにじられ、それを政府関係者がこのように公の場で認めているのである。日本が言う「尖閣問題は存在しない」という主張はそれこそ、そのまま存在せずに無くなってしまうのかもしれない。

もし織田空将の言うように、空自のパイロットが本当に戦域から離脱したのであれば、それ自体も問題であると感じる。武装し空を飛んでいても、中国軍機との戦闘エリアに入れば瞬く間にその空自機は逃げてゆく、というパターンを作り出しているのではないだろうか。今後の運用に不利に響く可能性がある。

このでの大きな問題は交戦規定である。既に何人もの専門家が指摘しているように、交戦規定の改正が必要である。日本の主権を守るために即した規定にすべきである。織田空将は「外交手段を取らない日本政府」を批判しているが、それだけでは足りない。外交だけではなく、軍事的な抑止力を戻すための措置が必要である。

変わりつつある世界の大学教育

今週のエコノミストは面白かった。特に興味を引いたのが、変わりつつある世界の大学教育についての記事である。

伝統的な教室、専攻、学部、そして教授陣を排除し、問題解決やグループ討議に焦点を置く新しいタイプの大学モデルが徐々に拡散しているようだ。授業では教授による講義の変わりにネット技術を教材として用い、学生が学ぶ環境を作る。この種の教育方法はイギリス、韓国、シンガポールなどに広がっているという。アメリカでも見ることができ、マサチューセッツ工科大の教授が辞職し、これをモデルにした新しい大学を近く開設するという。

面白い試みだと思う。私は基本的に最新技術をフルに用いた教育方法には賛成である。もちろん、技術のみに頼らず、授業の最初から最後まではあくまで教授本人が責任を持ち、本人の能力と努力で授業を行うが、技術の補助的な役割は今後おおいに生かすべきだと思っている。

政治学や国際関係学の授業では理論や概念の習得と応用、分析モデルの理解、世界政治の実際問題の理解など、特に最新技術を必要としない場合がある。従って学生数が多い場合は講義、少ない場合は colloquium が中心になる。私は一般的に後者のタイプを好むため、履行する学生の数は最小限に留めている。そんな中でも、授業の最中にネットから関連ビデオを引き出し学生に見せることも多々ある。

大学教育に関わる人間にとって大切な点は、上記の「教授陣を排除」しかねない点があるだろう。いわゆる技術革新が人間の労働力に取って代わる現象のことである。結果として教授職も減る。それに伴い政治学の研究も後退し、結果として国力の減退につながる。このような将来は喜ばしいものではない。

同じエコノミストにある別の記事で、近い将来どの職業が機械に取って代わられる可能性が高いかを、データを用いて論じている。そこに記されているのは、上位から、「テレマーケティング」、「会計士」、「営業」などが挙げられている。上位にはなかったが、「俳優」や「消防士」が挙げられているのは妙に納得した。

そのうちこのリストに大学教授も加えられることになるのだろうか? アメリカでは私はそうは思わない。あくまで伝統的な授業スタイルを好む家庭がアメリカでは今後も多く残るだろうと思っているからである。しかし少子化の進む日本ではどうだろうか? 失礼なのを承知で書かせて頂くが、大講堂で大勢の学生を相手に、議論もさせず、ロボットでもできるような一方通行の授業が続く社会ではこの新しいモデルがフィットするのではないかと、少し思ってしまう。

ミズーリにもいる野生のウサギ

アラバマでも野生の子ウサギが近所で雑草を普通に食べていたが、ここミズーリでも今朝現れた。前みたいに人参を切って餌としてあげよう。

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アメリカでの日本人専門家を育てるために

先日参加したマンスフィールド財団の日米専門家による会合の際、別の日本人の方と会話して幾つか考えることがあった。

これはこのブログで何度も書いているが、アメリカの政治学会において活躍する日本人の数は少なく、これは近い将来の日本の国益に否定的な形で影響を与えると懸念している。証拠もなく書けば、(私よりも)若い世代が特に育っていないのではないかと感じる。今後マンスフィールド財団のこのプログラム(博士号等要する)も、日本人の参加者が減ってしまい、日米のバランスが崩れてしまうのではないかと話していた。

日本政府は国を挙げて改革に挑むべきだと感じる。海外の学問の世界で活躍できる日本人研究者の競争力を上げるべく、アメリカなどでの社会科学の分野で博士号を望んでいる日本人の学生に政府からの奨学金を増やすべきである。返済不必要の奨学金(「奨学金」の本来の意味で)の変わりに、毎年どの研究をどう進めたかなどを記す報告書を提出させる。そして毎年日本に帰国する奨学生のシンポジウムを開き、海外で使っている言語で研究発表をさせる。その研究発表を論文にまとめ、英語で出版し、海外の大学、図書館等に送る。そうすることにより奨学生の海外での研究政策は継続することができ、同時に履歴書の内容も増え、海外での競争力が高まる。

海外から日本への留学生に潤沢な資金を与え、日本の研究をしてもらい、世界における日本の理解を深化させることの意味は理解できる。しかしそれだけでは一方通行に感じる。本来すべきなのは、日本国民の潜在能力を引き出すために、そして海外にその能力を証明するために必要な支援を政府が拠出し、その成果を出すようシステムを形成することである。アメリカなどの社会科学の博士課程は入学が非常に困難で、特にフルの奨学金をもらっての研究生活を始めるのは至難の業である。その最初の一歩を手助けすることで、強い意志と能力を持つ多くの日本人が世界で活躍できることになる。予算的にも無茶な額にはならないと感じる。この点については今後も考えていきたい。

久しぶりの大学キャンパス

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