9caa6d50.jpg
今週始めにイランのアハマディネジャド大統領(写真右)がコロンビア大でから招待され講義を行った。その招待に関しては、ニューヨークのイスラエル系ロビイスト、反イラン政治活動家を中心に徹底的な抗議が繰り広げられた。日本語での記事は例えば、

米コロンビア大でイラン大統領講演、賛否巻き起こす

そしてその大統領のスピーチとその反響に関する興味深いブログを読んだ。全て英語だが、興味のある方はこちらから。

Bollinger's Belligerence: SIPA Students Respond to Ahmadinejad Talk

まず大きな問題として、表現の自由が挙げられる。私は大学に所属する身という事もあり、そして日米などでは憲法で認められている通り、思想の自由、表現の自由を支持している。もちろんそれらには制限があり、残念ながら時には政治的に利用される事もわきまえている。コロンビア大学総長が、賛否両論の様々な政治圧力を受け今回のイラン大統領の招待に踏み切ったのも、そして世界が注目するメディアを目の前にしてその大統領を個人的にも政策的にも批判する際に外部からの政治圧力の役割があったという議論も、当然理解できる。

ただ招待を許したコロンビア総長がどう批判されようが、そこに政治的計算があったのは恐らく事実だろうし、それを多角的に客観的に証明するのは至難の業だろう。いずれにしても、物議を醸すイラン大統領をキャンパスに招待し、自分自身もフリー・スピーチのスピリットで彼を批判したコロンビア総長の行為は評価する。

同時に思うのは、イラン大統領の批判がここアメリカであまりに過熱している事である。イランは核疑惑があるものの、それを阻止しようと徹底的に抑圧するアメリカから見れば弱国に値する。イラン側から見てもそうであろう。イランへの批判に関しては、反イラン派にも当然表現の自由はあるのだが、それが過度に相手国を刺激する性質であれば、両国の外交問題にも発展しかねない。本来なら避けられるべきイランとの間の政治危機、そして戦争の可能性さえも不必要に高めてしまうかもしれない。

私は弱国と強国の軍事関係を研究している事もあり、一般的な戦争の原因を追究する事も仕事のひとつである。ここ200年あまりの戦争の歴史を振り返ってみても、過度の外交的な抑圧と挑発が、結果として不必要な戦争を起こしてきた例はいくつもある。そして前世紀に入り、核開発などを通して一般的な軍事能力が膨れ上がり、人類の安全を脅かす危険性が高まるときは、抑圧の使用は可能な限り制限されなくてはならない。イラクやアフガニスタンでの派兵が続いている現在なら当然の話である。思想や表現の自由というのはこのような状況では特に政治的に利用されがちでその危険性が高く、従って非常に敏感に扱われなくてはならないのである。

写真:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/photo/2005/06/26/PH2005062601297.jpg